この國の かたち

蝦夷と書いて «えみし» と読みます。これは昔 蝦夷と呼ばれていた山形県庄内地方に残る 不思議なお話しです

出羽國の古代史は 日本史の写し絵

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写真:田植えを終えた庄内平野の水田

 もともと、このblogの開設は、自身のルーツ探しに端を発しています。

定石(じょうせき)通り、菩提寺に残された記録の探索からスタートしましたが、これもよくある話で過去に火災にあっており、残念ながら手掛かりになるものは皆無でした。

また、町内に現存する“本家”なるお宅も訪問しましたが、参酌(さんしゃく)できる情報を得るに至っていません。

調べれば調べるほど、その域は広く深く、“発掘作業”は困難を極め、加えて古(いにしえ)の資料は、読みこなすには難解なものでした。が、多少なりとも集めた情報を、このサイトでジグゾーパズルのように組み立ててみることにします。

客観的な史実(史跡)の積み重ねにより、おぼろげながらでも一つの肖像をカタチづくれるならば、それは一つの成果であるし、延長線に自身のルーツが垣間見えるならば、これまでの作業が無駄ではなかった証しとなるはずです。

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サイト名の “この國”は、狭意での出羽國の海岸地帯、つまり庄内地方一帯を指し、広意では日本の国そのものを指します。故郷周辺の史跡を整理していくと、どうしても我が国の古代史の根幹に入り込まざるをえないのです。

当初は、サイトの一般公開を考えましたが、内容を精査してみると、特定の方々の利益に反する内容があることが判ってきました。

作業でお世話になっている方に「静かに探究したほうが賢明」とアドバイスを頂いたこともあり、これまで制作を進めてきたオープンサイトをリメイクして、特定のメンバーだけが読めるサイトへと移行することにしました。その分、周囲を気にしないで書けるわけです。

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写真:日本海に潅ぐ最上川

さて、このblogでは、以下の点を前提に進めさせて頂きます。

一つには「専門性の高い表現はしない」ということです。

専門用語は、歴史の経緯を説明するには楽なのですが、慣れない文章では読み手が大変なはずです。リンクを多用しますので、詳しくは専門サイトをご参照ください。

二つには「漢字に対する考え方」です。

学校教育では、いまでも「日本語のルーツは、文字をもたなかった縄文人の生活に大陸から渡ってきた弥生人が…」と教えているのでしょうか?

これは事実に反します。

もちろん大陸からの流入移民による影響は、それなりにありましたが、その人数は当時の日本人(縄文人)の人口に比して大きな影響を与えるものでなかったことが、現代科学を用いた研究から明らかになっています。日本人の主流となるDNAは、いまもって弥生人のものではなく縄文人が圧倒しているのです。

 漢字が古代の日本国に定着(?)したのは、西暦600年頃から。皇極天皇(在位:642~645年・後の斉明天皇)以降の一連の施策によるものと考えます。当時、複数の部族が共用していた言語が明らかにあり、その音(発音)に合わせて漢字を象嵌(ぞうがん)細工のごとくあてはめてたのが“漢字国家成立”の実態でした。

改竄(かいざん)は、当初、既存言語の意味に即した漢字をあてがったようですが、持統天皇(在位:690~697年)の時代になると「意味は考えなくてもよい。漢字に置き換えるスピードを速めるように」と、まるで何者かに追われるように国中の記録を変えていきました。

その結果がどうなったのかを調べるため、地方の責任者に書かせたのが「風土記」(ふどき)という書物なのです。

それでは、それまでの記録はどうなったのでしょうか? 

斉明天皇以降、過渡期の天皇は「いま発禁本を差し出せば罪は問わない」という詔を相次いでだしています。

すこし、難しくなりますが、一例として元明天皇(在位:707~715年)の詔を掲げましょう。

続日本紀」(しょくにほんぎ)には、次のように記されています。

「山沢(さんたく)に亡命し、軍器(ぐんき)を狭蔵(けふぞう)して、百日首(ももかまう)さぬは、復(また)罪(つみな)ふこと初めの如くせよ」(707年7月)

「山沢(さんたく)に亡命し、禁書(きむしょ)を狭蔵(けふぞう)して、百日首(ももかまう)さぬは、復(また)罪(つみな)ふこと初めの如くせよ」(708年正月)

この二つの詔は、恩赦文の後に記されたものです。

「武器をもち、禁じられた書物をもって山に逃げた者たちが、100日を経ても自首しない場合は恩赦はしない」という内容です。

こうした施策は、確認されているだけでも約50年に渡り続いており、藤原氏影響下の朝廷の下で、数百年は継続されたものと推測できます。

「武器や禁書をもち山に逃げた者」とは、いったい誰なのでしょうか? 歴代の天皇の詔ですから、単なる刑事犯というよりは «政治犯» なのではないでしょうか?

「山に逃げた」ならば、もともとは «里に居していた人々» のはずです。

「禁じられた書物」が何かはお判りでしょう。

学校教育において、いまだ古代史の出所となっているのは「日本書紀」や「古事記」が多いのですが、これら記紀が歴史を改ざんしていることは、いまでは多くの方が知るところです。この両書の成立は持統天皇藤原不比等)の時代であり、斉明天皇は、彼女の父方(天智天皇)の実祖母。元明天皇もまた、彼女の皇女にあたります。

どうも深みにハマりそうです。序文としては、このあたりで止めましょう。

改めて書きますと、このような歴史的な経緯から、文中に出てくる固有名詞には、脈絡のない漢字が用いられていることが、多々あることをご承知ください。とくに神社名や神名、神紋は意図的に改竄されており、近世でも明治政府による「国家神道」の国策の影響は著しく、戦後はGHQの管理下で神社本庁により行われました。

それから三つめには「既成概念に囚われない」ということです。 

ここでは、地域に残された史跡や伝承を積み重ねるこにより推論を行いますのが、その結果は往々にして通説や既成概念とは異なります。例えば祭神名では、一柱の神様に異なる名称が複数あり、既存の神々の系図を考えると混乱してしまうのです。

以上が、とくにご注意を頂きたい点です。

可能な限り、文脈が崩れないようにするつもりです。

未熟な点はどうかご容赦ください。

それでは始めましょう☆彡