この國の かたち

蝦夷と書いて «えみし» と読みます。これは昔 蝦夷と呼ばれていた山形県庄内地方に残る 不思議なお話しです

地名に刻まれる 先人の足跡

f:id:kono_kunino_katachi:20160116113701j:plain

写真:蜂子皇子(波知乃子王/参仏理大臣)像

さて、庄内地域の特異性を説明するには、砂越城跡(酒田市)から入るのが都合がよいのですが、まずは分かりやすく、知名度の高い出羽三山にまつわるお話から入りたいと思います。

公式サイトでは、蜂子皇子(ハチコノオウジ)に関する伝承を、以下のように説明しています。

出羽三山の開祖である蜂子皇子が羽黒山へ辿り着くまでのルートについては諸説あるが、その一つに由良の八乙女伝説がある。
 崇峻5年(592)の冬、父である第32代崇峻天皇蘇我馬子(ソガノウマコ)によって暗殺された。このまま宮中に居ては皇子である蜂子の身も危ないと、聖徳太子(ショウトクタイシ)の勧めにより倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた。ここに容姿端正な美童八人が海の物を持って洞窟を往来していた。

 皇子は不思議に思い上陸し、乙女に問おうとしたが皆逃れ隠れてしまった。そこに髭の翁があらわれ、皇子に『この地は伯禽島姫の宮殿であり、この国の大神の海幸の浜である。ここから東の方に大神の鎮座する山がある。早々に尋ねるがよい』とおっしゃられた。

 そこで皇子はその教えに従い東の方に向かって進まれたが、途中道を失ってしまった。その時、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を羽黒山の阿久岳へと導いた。これにより、由良の浜を八乙女の浦と称し、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けた
 このように、羽黒神は八乙女の浦の洞窟を母胎として誕生したとされ、しかもこの洞窟は羽黒山本社の宮殿と地下道で結ばれているという言い伝えがある。
 *伯禽島姫 ー 竜王の娘である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト=竜宮にあっては伯禽島姫)で、江戸時代は羽黒神とされた」(出羽三山御由緒より)

この由緒を公式サイトが、いつ頃から掲載しているのかは不明ですが、私は感慨深く読ませていただきました。その理由は、いずれ述べるとして、さて蜂子皇子の出羽国までの経路を再確認してみましょう。

文中では「倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた」と記されているのですが、私の記憶では「蜂子皇子は、蘇我馬子から逃れるべく丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った」が通説なのです。

私は「出羽三山の開祖は、蜂子皇子ではない」と考えていますので、ここでは神社の由緒に反して通説をとり、「蜂子皇子は丹後国由良から船出した」ことを検証したいと思います。

さて、丹後半島の地図の登場です。

f:id:kono_kunino_katachi:20160119133946j:plain

いまも京都府宮津市には、東側に由良川を配する「丹後由良」と呼ばれる地域があります。由良川の上流は、京都市に隣接した南丹後市まで伸びており、少なくとも中流の福知山市綾部市付近まで陸路で逃げ延びれば、日本海側に容易に到達できるインフラ(一級河川)があったことは重要です。

また、丹後半島の西側には「間人」(タイザ)という地域があり、かつては「はしひと」「はしうど」と言われていたそうで、「聖徳太子の実母が蘇我氏物部氏の騒乱を避けて身を隠し、のちに自らの名を与えた」のが地名の由来となっています。

しかし、通説ではさらに「もともと、この地区には間人族が住んでおり、聖徳太子の実母は、この土地の生まれであった」とし、その象徴として、実母の名が「穴穂部間人皇女」(アナホベノハシヒトノヒメミコ)であることを挙げています。

「穴穂部」の名は、石上穴穂宮(イソノカミノアナホノミヤ)で育ったことに由来するもので、物部系の宮です。また「間人」は間人族、あるいは間人地区の出身であることを意味する、と私は考えます。

ですから穴穂部間人皇女とは、物部氏によって育てられた間人族出身の女性であることが判ります。また欽明天皇皇女(孝徳天皇皇后)が「間人皇女」と呼ばれるのも、同じ理由からでしょう。

かつての丹後半島に、穴穂部間人皇女の実家ががあったことを踏まえると、その守護により蜂子皇子が逃れた可能性は高いはずです。

f:id:kono_kunino_katachi:20160120144101j:plain

さて、蜂子皇子とは別の逃避行となった母・小手子姫(コテヒメ=写真)のことを記録しておきましょう。

小手子姫は、朝廷の国軍を担当する物部氏と共に、その親衛隊のような存在である大伴氏の姫君です。蜂子皇子には、この大伴氏の血が流れていたため、出羽に逃れたと伝えられているわけです。

彼女は蜂子皇子を捜し求めて、実父と娘・錦代皇女とともに東北に落ち延びました。そのサポートをしたのが、京都に拠点をおく秦氏(ハタシ/=賀茂氏)でした。彼女たちは、秦氏一族の名を借りて都を逃れたのです。

旅の途中に錦代皇女を亡くした小手子は、故郷の大和の風情に似た、いまの福島県伊達郡川俣町伊達市月舘地域に逗留し、桑を植え養蚕の技術を人々に広めたといいます。その後小手子は、蜂子皇子に会えないことを悲嘆して、川俣町大清水地内にある清水に身を投げたと伝えられているのですが、蜂子皇子も小手子姫も、同じ賀茂族がサポートしていながら、なぜ会うことが許されなかったのか?

これは大きな謎です。

蛇足ですが、蜂子皇子が上陸したのは由良ではなく「他の浜」と伝承に記録されています。出羽三山の由緒は、その浜を近隣の浜と考えているのかも知れません。しかし、当時の庄内平野は、一面が湿地帯であり、旧赤川も暴れ龍のごとく氾濫していましたから、羽黒に向かうには山裾を辿り大きく迂回するしかなかったはずで、蜂子皇子が加茂に上陸する意義はないと考えます。

むしろ、最上川を経て立谷沢川をのぼり、いまの羽黒古道と呼ばれる地から羽黒を目指すのが容易だったのではないでしょうか? すでに羽黒に基盤をつくっていた三本足の八咫烏(賀茂氏)であれば、道案内ができたはずです。

山形県東田川郡庄内町。旧立川町の立谷沢地区。ここに、いまも“鉢子”という集落があり、羽黒古道の入口となっているのは、その名残のように思うのです。

また、蜂子皇子と羽黒神である「羽黒彦」(ウガヒコ)を結びつけるものも、確認できません。むしろ「羽黒彦=盧茲草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)」との考え方が自然ではないでしょうか? 出羽三山の開山は、通説で「蜂子皇子による(593年)」としていますが、私は「能除太子は別人であり、その年代は、さらに遡る」と考えています。