この國の かたち

蝦夷と書いて «えみし» と読みます。これは昔 蝦夷と呼ばれていた山形県庄内地方に残る 不思議なお話しです

椙尾神社に伝わる出雲族上陸の記録

 

 

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出羽国の「出羽」の語源には諸説あり、漢字の意味から「羽根がたくさん取れた」とか「越国の端(出端)」などの説が、よく取り上げられます。

しかし、私には、このような解釈がよく理解できません。既述のように、漢字は、本来あった言語に「当て字としてあて嵌められた」ことを踏まえると、言葉の読み(音)にこそ語源が隠されているからです。

私見は、出羽神社の祭神とされる「伊氐波神」(イテハノカミ)に、出羽の語源があると考えます。ただ、伊氐波神の正しい読み方は、出羽三山神社由来にも書かれている「イツハ」(イツハの里=由良)でしょう。この「イツハ」の神様が、刀工である月山鍛冶の先祖、賀茂族(かもぞく)によりもたらされた可能性が認められるのです。

賀茂氏は、葛城族の一派であり、鉱山開発や鍛冶技術、あるいは製塩技術などを駆使しながら日本中を開拓した神祇集団です。出羽三山の開山には、彼ら、賀茂氏が関わっているのではないか? と疑っているのです。

その痕跡を辿りましょう。

加茂と湯浜の間に「宮沢海岸」があり、ここに「事代主が上陸した地」と銘まれた石碑が建立されています。

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写真:宮沢海岸に建立された椙尾大神神迹贄磯の碑

石碑の表に刻まれた「椙尾大神神迹贄磯」の神迹(シンジャク)は、この浜が神仏に関わる神聖な場所であることを意味し、贄磯(ニエイソ)は神様に供え物をした浜であることを示しています。建立は1930年(昭和5年)です。

「宮沢は湯野浜の南隣りで、小川を境として殆ど同じ部落のように連なっている。山を隔てた下川馬町の椙尾神社の御旅所であり、古くから祭礼のとき魚を供進する御贄浜であることから宮沢の地名がつけられた。

 伝説によると祭神の事代主神大国主命の子)が、出雲の国から海を渡って最初に上陸した土地であるという。六月晦の夏越の大祓の神事では、椙尾神社の神輿渡御で宮沢海岸塩かけ岩に安置される。

 日没の頃小舟に神輿をのせ沖に漕ぎでて、形代を海に流して祓をする。神事のあと山越えすると、数百名の青少年の松明行列は壮観で他にその比をみない」(庄内浜文化情報館より)

文中にあるように、この伝承は近隣の(昔は浜近くにあったそうですが)「椙尾神社」(スギノオジンジャ)に伝わるものです。椙尾神社は、1965年(明治40年)に名前を変えられており、本来の名は「小物忌椙尾神社」(オモノイミスギノオジンジャ)です。

主祭神は、事代主。その別名は「鴨都波八重事代主」(カモツハヤエコトシロヌシ)。頭に「鴨」がありますね。鴨は、賀茂であり、加茂なのです。

事代主は、賀茂族の氏神様、男神です。能登にある賀茂神社は「別雷大神」(ワケイカヅチノオオカミ)を奉っていましたが、これも事代主の別名で、雷を(別)わけるほど、霊験あらたかな神様ということです。

そして、鴨の次の「都波」(ツハ)は、水に関わる神様であることを意味していて、同様に水の女神に「弥都波能売神」(ミツハノメノカミ/日本書紀以降は、水神罔象女(ミツハノメ)と書き換えられています)がいます。やはり「都波」が入っていて、ご推察のとおり、この神様は「瀬織津姫」(龍神)の別名です。

じつは古代にあって水神は、水脈や鉱脈にも通じることから、賀茂氏は水神を祀っていました。月山鍛冶は、別名「山伏鍛冶」。いまでも月山山頂には、祖と呼ばれる鬼王丸の作業場(鍛冶小屋跡地)に「鍛冶稲荷神社」が祀られています。

稲荷明神の主祭神は、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ/=瀬織津姫)であり、秦氏(ハタシ)の氏神です。

また、同様に鍛冶神に龍神を奉っていたのが忌部氏(インベシ)で、彼らは「天目一箇神」(アメノマヒトツノカミ)という片目の龍神を奉っていました。忌部氏は、まだまだ謎の多い氏族ですが、この天目一箇神は、物部氏(モノノベシ)の「天津麻羅」(アマツマラ)と同神とみられています。

一方、興味深いのが、島根県の瑞穂(ミズホ)地区で採れた砂鉄から製鋼した鋼を「出羽鋼」(イヅハハガネ)と呼ぶことです。このあたりは「たたら製鉄発祥の地」であり、「出羽」の名の由来は、昔、この一帯が「出羽」と呼ばれる地だったからで、本来の呼び方は、どうも「イヅハ」ではなく「ミヅハ」。それで現在は、この地を「瑞穂」と命名したようなのです。

どうですか? 「ミヅハ」は「弥都波能売神」に通じませんか? 

また、この地には「月山(山伏鍛冶)の奴らは、良い鋼を全部持っていきやがる」と、愚痴のような記録も残っています。

もっとも、たたら製鉄の鍛冶たちが、実際に弥都波能売神を奉っていたのか? その記録は、確認できていません。日本書紀では、金山彦神や金山毘売神(カナヤマビメノカミ/=金山姫神)が登場し、鉱山の神として祀られているのが現状です。

はたして金山毘売神と、弥都波能売神が同一神なのか? このあたりの実証は、今後の課題ですが、賀茂族により「弥都波能売神」(あるいは弥都波能神)が庄内にもたらされ、「伊氐波神」(イツハノカミ)に変化したというのが私の見解です。

弥都波能売神の痕跡は、奈良の鴨都波神社にも認められます。

社伝によると、この神社は崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の「大賀茂都美命」により創建されたようです。一帯は鴨都波遺跡で、弥生時代の土器や農具が多数出土しています。

主祭神は、積羽八重事代主命事代主)と下照姫命。下照姫命は、事代主とともに祀られることに疑問があることから、元は別の神が祀られていたとみられており、その「元の別の神」に、鴨都波神社の古社名である「鴨弥都波(カモミツハ)神」「鴨の水際(ミヅハ)の神」が関連付けられています。

ここでも、弥都波能売神が賀茂氏の祭神であることが示されています。

そして既述のように、出羽鋼の産地である島根県瑞穂地区は「たたら製鉄」の地。そう! 出雲族による、最古の製鉄技術の発祥地なのです。この点も、椙尾神社に伝わる「宮沢海岸に出雲族上陸」という伝承と合致するのです。

賀茂氏の上陸により出羽建国?

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それでは加茂地区の成り立ちは、どのようになっているのでしょうか?

県史には「加茂は和銅年間(710年頃)能登からの移住によって開かれた」としています。まあ、地名が「加茂」ですから、賀茂氏が絡んでいるのは間違いないでしょう。

また、蜂子皇子は「佐渡経由で由良に到着」と伝えられていますが、当時の佐渡は、島全体が賀茂氏の拠点だったように考えます。

そこで、いまは石川県となっている能登半島内の町で「賀茂族の痕跡」を探しました。

しかし、どうも見当たらない。

歴史の中に埋没した可能性はあります。

そこでmapを拡大して、加茂の名残りを探しました。

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 すると・・・、ありましたよ! 発掘しました!

石川県羽咋郡志賀町矢駄エ120。

ここに、昔、能登加茂庄(庄園)の総社があったのです。

いまは「加茂神社」として、以下のような伝承を残しています。

「彌屋正守(田中家初代)の神託により和銅5年か大宝元年の勧請と伝えられる。往古より加茂庄総社。元正天皇御宇泰澄大師参籠。応永2年石動山明王坊奉献の有馬次郎作の懸仏現存(町指定文化財)文亀3年稲葉左近社殿修築。明治以前湯立釜神事斎行。明治39年村社に列格。明治44年加茂神社と改称」

ご祭神は、別雷神(ワケイカヅチノカミ)、玉依比賣命(タマヨリビメ)、大鷦鷯尊(オオサザキノミコト/=仁徳天皇(応神天皇?))、菊理媛神(ククリヒメノカミ)。別雷神は、賀茂氏氏神様で、他の柱は、明治時代に白山神社八幡神社の合祀の際に追加されたと考えられます。

和銅5年は西暦712年。

じつは、この年が通説では出羽国建国の年。つまり能登賀茂神社神託(712年)と、鶴岡・加茂地区への上陸(710年頃)、そして出羽国建国(712年)が、ほぼ同じ時期であったと推測されています。710年は、元明天皇より遷都の詔が発せられ、平城京への遷都がなされた年であり、物部氏蘇我氏の排除が顕著に行われた時代と重なることは、特筆すべきことでしょう。

一方、加茂と湯浜に挟まれた宮沢海岸にも、賀茂氏上陸の伝承が残っています。

出羽三山の由緒では「蜂子皇子由良到着 ⇒ 能登から加茂地区への移住(朝廷による旧氏族の排除) ⇒ 出羽国の建国」と判断したのではないでしょうか?

なにをもって「建国」というのか? その基準は定かではありませんが、いったん角度を変えて出羽国の「出羽」の名称のルーツを探ってみたいと思います。

地名に刻まれる 先人の足跡

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写真:蜂子皇子(波知乃子王/参仏理大臣)像

さて、庄内地域の特異性を説明するには、砂越城跡(酒田市)から入るのが都合がよいのですが、まずは分かりやすく、知名度の高い出羽三山にまつわるお話から入りたいと思います。

公式サイトでは、蜂子皇子(ハチコノオウジ)に関する伝承を、以下のように説明しています。

出羽三山の開祖である蜂子皇子が羽黒山へ辿り着くまでのルートについては諸説あるが、その一つに由良の八乙女伝説がある。
 崇峻5年(592)の冬、父である第32代崇峻天皇蘇我馬子(ソガノウマコ)によって暗殺された。このまま宮中に居ては皇子である蜂子の身も危ないと、聖徳太子(ショウトクタイシ)の勧めにより倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた。ここに容姿端正な美童八人が海の物を持って洞窟を往来していた。

 皇子は不思議に思い上陸し、乙女に問おうとしたが皆逃れ隠れてしまった。そこに髭の翁があらわれ、皇子に『この地は伯禽島姫の宮殿であり、この国の大神の海幸の浜である。ここから東の方に大神の鎮座する山がある。早々に尋ねるがよい』とおっしゃられた。

 そこで皇子はその教えに従い東の方に向かって進まれたが、途中道を失ってしまった。その時、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を羽黒山の阿久岳へと導いた。これにより、由良の浜を八乙女の浦と称し、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けた
 このように、羽黒神は八乙女の浦の洞窟を母胎として誕生したとされ、しかもこの洞窟は羽黒山本社の宮殿と地下道で結ばれているという言い伝えがある。
 *伯禽島姫 ー 竜王の娘である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト=竜宮にあっては伯禽島姫)で、江戸時代は羽黒神とされた」(出羽三山御由緒より)

この由緒を公式サイトが、いつ頃から掲載しているのかは不明ですが、私は感慨深く読ませていただきました。その理由は、いずれ述べるとして、さて蜂子皇子の出羽国までの経路を再確認してみましょう。

文中では「倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた」と記されているのですが、私の記憶では「蜂子皇子は、蘇我馬子から逃れるべく丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った」が通説なのです。

私は「出羽三山の開祖は、蜂子皇子ではない」と考えていますので、ここでは神社の由緒に反して通説をとり、「蜂子皇子は丹後国由良から船出した」ことを検証したいと思います。

さて、丹後半島の地図の登場です。

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いまも京都府宮津市には、東側に由良川を配する「丹後由良」と呼ばれる地域があります。由良川の上流は、京都市に隣接した南丹後市まで伸びており、少なくとも中流の福知山市綾部市付近まで陸路で逃げ延びれば、日本海側に容易に到達できるインフラ(一級河川)があったことは重要です。

また、丹後半島の西側には「間人」(タイザ)という地域があり、かつては「はしひと」「はしうど」と言われていたそうで、「聖徳太子の実母が蘇我氏物部氏の騒乱を避けて身を隠し、のちに自らの名を与えた」のが地名の由来となっています。

しかし、通説ではさらに「もともと、この地区には間人族が住んでおり、聖徳太子の実母は、この土地の生まれであった」とし、その象徴として、実母の名が「穴穂部間人皇女」(アナホベノハシヒトノヒメミコ)であることを挙げています。

「穴穂部」の名は、石上穴穂宮(イソノカミノアナホノミヤ)で育ったことに由来するもので、物部系の宮です。また「間人」は間人族、あるいは間人地区の出身であることを意味する、と私は考えます。

ですから穴穂部間人皇女とは、物部氏によって育てられた間人族出身の女性であることが判ります。また欽明天皇皇女(孝徳天皇皇后)が「間人皇女」と呼ばれるのも、同じ理由からでしょう。

かつての丹後半島に、穴穂部間人皇女の実家ががあったことを踏まえると、その守護により蜂子皇子が逃れた可能性は高いはずです。

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さて、蜂子皇子とは別の逃避行となった母・小手子姫(コテヒメ=写真)のことを記録しておきましょう。

小手子姫は、朝廷の国軍を担当する物部氏と共に、その親衛隊のような存在である大伴氏の姫君です。蜂子皇子には、この大伴氏の血が流れていたため、出羽に逃れたと伝えられているわけです。

彼女は蜂子皇子を捜し求めて、実父と娘・錦代皇女とともに東北に落ち延びました。そのサポートをしたのが、京都に拠点をおく秦氏(ハタシ/=賀茂氏)でした。彼女たちは、秦氏一族の名を借りて都を逃れたのです。

旅の途中に錦代皇女を亡くした小手子は、故郷の大和の風情に似た、いまの福島県伊達郡川俣町伊達市月舘地域に逗留し、桑を植え養蚕の技術を人々に広めたといいます。その後小手子は、蜂子皇子に会えないことを悲嘆して、川俣町大清水地内にある清水に身を投げたと伝えられているのですが、蜂子皇子も小手子姫も、同じ賀茂族がサポートしていながら、なぜ会うことが許されなかったのか?

これは大きな謎です。

蛇足ですが、蜂子皇子が上陸したのは由良ではなく「他の浜」と伝承に記録されています。出羽三山の由緒は、その浜を近隣の浜と考えているのかも知れません。しかし、当時の庄内平野は、一面が湿地帯であり、旧赤川も暴れ龍のごとく氾濫していましたから、羽黒に向かうには山裾を辿り大きく迂回するしかなかったはずで、蜂子皇子が加茂に上陸する意義はないと考えます。

むしろ、最上川を経て立谷沢川をのぼり、いまの羽黒古道と呼ばれる地から羽黒を目指すのが容易だったのではないでしょうか? すでに羽黒に基盤をつくっていた三本足の八咫烏(賀茂氏)であれば、道案内ができたはずです。

山形県東田川郡庄内町。旧立川町の立谷沢地区。ここに、いまも“鉢子”という集落があり、羽黒古道の入口となっているのは、その名残のように思うのです。

また、蜂子皇子と羽黒神である「羽黒彦」(ウガヒコ)を結びつけるものも、確認できません。むしろ「羽黒彦=盧茲草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)」との考え方が自然ではないでしょうか? 出羽三山の開山は、通説で「蜂子皇子による(593年)」としていますが、私は「能除太子は別人であり、その年代は、さらに遡る」と考えています。

出羽國の古代史は 日本史の写し絵

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写真:田植えを終えた庄内平野の水田

 もともと、このblogの開設は、自身のルーツ探しに端を発しています。

定石(じょうせき)通り、菩提寺に残された記録の探索からスタートしましたが、これもよくある話で過去に火災にあっており、残念ながら手掛かりになるものは皆無でした。

また、町内に現存する“本家”なるお宅も訪問しましたが、参酌(さんしゃく)できる情報を得るに至っていません。

調べれば調べるほど、その域は広く深く、“発掘作業”は困難を極め、加えて古(いにしえ)の資料は、読みこなすには難解なものでした。が、多少なりとも集めた情報を、このサイトでジグゾーパズルのように組み立ててみることにします。

客観的な史実(史跡)の積み重ねにより、おぼろげながらでも一つの肖像をカタチづくれるならば、それは一つの成果であるし、延長線に自身のルーツが垣間見えるならば、これまでの作業が無駄ではなかった証しとなるはずです。

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サイト名の “この國”は、狭意での出羽國の海岸地帯、つまり庄内地方一帯を指し、広意では日本の国そのものを指します。故郷周辺の史跡を整理していくと、どうしても我が国の古代史の根幹に入り込まざるをえないのです。

当初は、サイトの一般公開を考えましたが、内容を精査してみると、特定の方々の利益に反する内容があることが判ってきました。

作業でお世話になっている方に「静かに探究したほうが賢明」とアドバイスを頂いたこともあり、これまで制作を進めてきたオープンサイトをリメイクして、特定のメンバーだけが読めるサイトへと移行することにしました。その分、周囲を気にしないで書けるわけです。

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写真:日本海に潅ぐ最上川

さて、このblogでは、以下の点を前提に進めさせて頂きます。

一つには「専門性の高い表現はしない」ということです。

専門用語は、歴史の経緯を説明するには楽なのですが、慣れない文章では読み手が大変なはずです。リンクを多用しますので、詳しくは専門サイトをご参照ください。

二つには「漢字に対する考え方」です。

学校教育では、いまでも「日本語のルーツは、文字をもたなかった縄文人の生活に大陸から渡ってきた弥生人が…」と教えているのでしょうか?

これは事実に反します。

もちろん大陸からの流入移民による影響は、それなりにありましたが、その人数は当時の日本人(縄文人)の人口に比して大きな影響を与えるものでなかったことが、現代科学を用いた研究から明らかになっています。日本人の主流となるDNAは、いまもって弥生人のものではなく縄文人が圧倒しているのです。

 漢字が古代の日本国に定着(?)したのは、西暦600年頃から。皇極天皇(在位:642~645年・後の斉明天皇)以降の一連の施策によるものと考えます。当時、複数の部族が共用していた言語が明らかにあり、その音(発音)に合わせて漢字を象嵌(ぞうがん)細工のごとくあてはめてたのが“漢字国家成立”の実態でした。

改竄(かいざん)は、当初、既存言語の意味に即した漢字をあてがったようですが、持統天皇(在位:690~697年)の時代になると「意味は考えなくてもよい。漢字に置き換えるスピードを速めるように」と、まるで何者かに追われるように国中の記録を変えていきました。

その結果がどうなったのかを調べるため、地方の責任者に書かせたのが「風土記」(ふどき)という書物なのです。

それでは、それまでの記録はどうなったのでしょうか? 

斉明天皇以降、過渡期の天皇は「いま発禁本を差し出せば罪は問わない」という詔を相次いでだしています。

すこし、難しくなりますが、一例として元明天皇(在位:707~715年)の詔を掲げましょう。

続日本紀」(しょくにほんぎ)には、次のように記されています。

「山沢(さんたく)に亡命し、軍器(ぐんき)を狭蔵(けふぞう)して、百日首(ももかまう)さぬは、復(また)罪(つみな)ふこと初めの如くせよ」(707年7月)

「山沢(さんたく)に亡命し、禁書(きむしょ)を狭蔵(けふぞう)して、百日首(ももかまう)さぬは、復(また)罪(つみな)ふこと初めの如くせよ」(708年正月)

この二つの詔は、恩赦文の後に記されたものです。

「武器をもち、禁じられた書物をもって山に逃げた者たちが、100日を経ても自首しない場合は恩赦はしない」という内容です。

こうした施策は、確認されているだけでも約50年に渡り続いており、藤原氏影響下の朝廷の下で、数百年は継続されたものと推測できます。

「武器や禁書をもち山に逃げた者」とは、いったい誰なのでしょうか? 歴代の天皇の詔ですから、単なる刑事犯というよりは «政治犯» なのではないでしょうか?

「山に逃げた」ならば、もともとは «里に居していた人々» のはずです。

「禁じられた書物」が何かはお判りでしょう。

学校教育において、いまだ古代史の出所となっているのは「日本書紀」や「古事記」が多いのですが、これら記紀が歴史を改ざんしていることは、いまでは多くの方が知るところです。この両書の成立は持統天皇藤原不比等)の時代であり、斉明天皇は、彼女の父方(天智天皇)の実祖母。元明天皇もまた、彼女の皇女にあたります。

どうも深みにハマりそうです。序文としては、このあたりで止めましょう。

改めて書きますと、このような歴史的な経緯から、文中に出てくる固有名詞には、脈絡のない漢字が用いられていることが、多々あることをご承知ください。とくに神社名や神名、神紋は意図的に改竄されており、近世でも明治政府による「国家神道」の国策の影響は著しく、戦後はGHQの管理下で神社本庁により行われました。

それから三つめには「既成概念に囚われない」ということです。 

ここでは、地域に残された史跡や伝承を積み重ねるこにより推論を行いますのが、その結果は往々にして通説や既成概念とは異なります。例えば祭神名では、一柱の神様に異なる名称が複数あり、既存の神々の系図を考えると混乱してしまうのです。

以上が、とくにご注意を頂きたい点です。

可能な限り、文脈が崩れないようにするつもりです。

未熟な点はどうかご容赦ください。

それでは始めましょう☆彡