それでは加茂地区の成り立ちは、どのようになっているのでしょうか?
県史には「加茂は和銅年間(710年頃)能登からの移住によって開かれた」としています。まあ、地名が「加茂」ですから、賀茂氏が絡んでいるのは間違いないでしょう。
また、蜂子皇子は「佐渡経由で由良に到着」と伝えられていますが、当時の佐渡は、島全体が賀茂氏の拠点だったように考えます。
そこで、いまは石川県となっている能登半島内の町で「賀茂族の痕跡」を探しました。
しかし、どうも見当たらない。
歴史の中に埋没した可能性はあります。
そこでmapを拡大して、加茂の名残りを探しました。
すると・・・、ありましたよ! 発掘しました!
ここに、昔、能登加茂庄(庄園)の総社があったのです。
いまは「加茂神社」として、以下のような伝承を残しています。
「彌屋正守(田中家初代)の神託により和銅5年か大宝元年の勧請と伝えられる。往古より加茂庄総社。元正天皇御宇泰澄大師参籠。応永2年石動山明王坊奉献の有馬次郎作の懸仏現存(町指定文化財)文亀3年稲葉左近社殿修築。明治以前湯立釜神事斎行。明治39年村社に列格。明治44年加茂神社と改称」
ご祭神は、別雷神(ワケイカヅチノカミ)、玉依比賣命(タマヨリビメ)、大鷦鷯尊(オオサザキノミコト/=仁徳天皇(応神天皇?))、菊理媛神(ククリヒメノカミ)。別雷神は、賀茂氏の氏神様で、他の柱は、明治時代に白山神社と八幡神社の合祀の際に追加されたと考えられます。
和銅5年は西暦712年。
じつは、この年が通説では出羽国建国の年。つまり能登の賀茂神社の神託(712年)と、鶴岡・加茂地区への上陸(710年頃)、そして出羽国建国(712年)が、ほぼ同じ時期であったと推測されています。710年は、元明天皇より遷都の詔が発せられ、平城京への遷都がなされた年であり、物部氏や蘇我氏の排除が顕著に行われた時代と重なることは、特筆すべきことでしょう。
一方、加茂と湯浜に挟まれた宮沢海岸にも、賀茂氏上陸の伝承が残っています。
出羽三山の由緒では「蜂子皇子由良到着 ⇒ 能登から加茂地区への移住(朝廷による旧氏族の排除) ⇒ 出羽国の建国」と判断したのではないでしょうか?
なにをもって「建国」というのか? その基準は定かではありませんが、いったん角度を変えて出羽国の「出羽」の名称のルーツを探ってみたいと思います。